家康や清正と対峙した小西行長の「承認欲求」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第31回
■秀吉からの評価を最優先にする
秀吉は、他家の有能な家臣を豊臣家の直臣として取り立てる事が多く、有名な者では立花宗茂(たちばなむねしげ)や長束正家(なつかまさいえ)などがいます。行長も宇喜多家から引き抜かれるような形で、秀吉の直臣となります。
先述の肥後半国20万石の拝領には、行長が商家出身である素性も評価されており、唐入りにおける外交交渉や、外征時の先導役を期待されていたとも言われています。
しかし、朝鮮国との交渉は思い通りにならず、秀吉には服属に成功したと虚偽の報告を行います。
そして、唐入りの準備が本格的に始まると、この失態をごまかすために朝鮮国が変心したと責任転嫁を図ります。嘘に嘘を重ねてしまうという「承認欲求」の強い人物に多く見られる行動が垣間見えます。
その後、文禄の役において行長は汚名挽回を図るために、漢城や平壌など主要な都城を攻略して戦果を挙げていきます。その間も朝鮮国王に服属するよう交渉を呼びかけて、秀吉の唐入りを成功させるよう努力を続けています。
しかし、これらの過程において遠征軍の諸将との間で不協和音を生み出しています。
■同僚たちとの軋轢を生む「承認欲求」
行長と同じく肥後半国を与えらえた加藤清正との確執は有名です。
文禄の役では、清正と戦果を競うために半島の攻略を急いでいます。その中で行長には独断専行的な行動もあったようで、他の諸将も不満を持ち始めていたようです。
一例として明軍の参戦を受けて黒田孝高(くろだよしたか)が出した漢城までの撤退案を、行長は明軍の参戦はないとして退けたと言われています。その結果、行長の隊は明の大軍に包囲され、窮地に陥ってしまいます。
そして、明軍との講和交渉においても、行長と清正の間に主導権争いが生まれています。この時に、行長が三成と共謀し清正の不行状を訴え、本国へ召喚させたという逸話があります。
また明国との講和交渉において、秀吉の日本国王及び諸将の官職補任を要求する際に、自分に都合よく候補を推薦したと考えられています。確かに行長は、後の西軍となる三成たちと共に都督僉事などに補任されていますが、東軍となる清正たちは補任されていません。
しかも行長は講和を急ぐあまり、北京に送る書状を偽作までしています。結果的に、この講和交渉は決裂し慶長の役(けいちょうのえき)へと繋がります。
この時の諸将との軋轢(あつれき)が豊臣政権の内部分裂に繋がる遠因となり、関ヶ原の戦いへと発展し豊臣政権の崩壊を招きます。
■「承認欲求」という諸刃の剣
行長の「承認欲求」は秀吉の期待に対して一定の成果を挙げましたが、一方で政権内部の調和を乱す事に直結しました。
現代でも、従業員の「承認欲求」がモチベーションとなって組織の成長を牽引する原動力となる場合がありますが、それが強すぎると過度な競争を生み、従業員間の軋轢を深め、組織の弱体化に繋がる事も多々あります。
もし行長が、自身の「承認欲求」を抑え、清正など諸将との調和を優先できていれば、家康との対峙の形も変わっていたかもしれません。とはいえ、戦国時代の武将たちの多くは「承認欲求」を強く有していたと思われ、それを原動力とする行動の数々が、戦国時代を魅力的にしている要素である事は間違いないと思います。
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